Top 記事一覧 体験談 妊娠20週での二分脊椎、水頭症による人工流産-当事者の声 その時 #13

妊娠20週での二分脊椎、水頭症による人工流産-当事者の声 その時 #13

赤ちゃんとお別れした人、と聞くと真っ先にママのことを思い浮かべる方が多いのではないだろうか。

確かにおなかの赤ちゃんの一番近くにいて育ててきたのは、紛れもなくママだ。しかし赤ちゃんの親は母親だけではない。父親だって赤ちゃんとお別れをした当事者なのである。

では赤ちゃんとお別れをしたパパの悲しみはどのようなものだろうか。

悲しみの大小や感じ方は千差万別だが、世間ではパパの悲しみは軽視される傾向にあると感じる。男は泣かないものという、かつての固定観念からパパ自身が悲しみをあまり表出しないことも関係しているかもしれない。

しかし、その表面だけを見て「パパはそこまで悲しくないのでは」と決めつけてしまうのは大きな間違いだと私は思う。

今回は、赤ちゃんとのお別れを経験したパパにインタビューを行った。お別れを経験したあとの、パパならではの苦悩を話してくれた。

妊娠20週/二分脊椎、水頭症による人工流産

名前:久米俊介さん(仮名)
地域:東京都
職業:会社員
家族構成:パパ(30歳)、ママ(29歳)、お子さんがお空に1人
第一子を自然妊娠したが、妊娠19週(妊娠5ヶ月)に二分脊椎*1、水頭症*2の診断を受け、妊娠20週(妊娠6ヶ月)に人工流産を選択した。
*1 先天的に脊椎の一部が欠損し、脊椎の中にある脊髄が外に出ている状態
*2 何らかの原因により頭蓋内(脳室、くも膜下腔など)に過剰な髄液が貯留した状態

パパになる実感

トイレから出てきた妻の顔には笑みが溢れていた。その手には陽性の妊娠検査薬が握られていた。

——やった!やっと来てくれた!

赤ちゃんを望んでから半年経っていた。私たち夫婦にとって、この妊娠はずっと待ち侘びたものだった。

妊娠中、妻は電車酔いのような吐き気が続き、日常生活もままならないほどで、とても辛そうに見えた。

おなかの中で赤ちゃんを育てることは妻にしかできない。それなら自分にできることはなんだろう?そう考えた私は仕事をしながら家事全般を引き受けた。正直、仕事との両立は大変だった。妻が食べられるものはないか一緒に考えたり、匂いに気を遣ったりしながら過ごしていた。そのため、妻のつわりによって自分の生活も大きく変わり、全く他人事ではなかった。赤ちゃんが生まれる前だが、妻と一緒に子育てをしているような気持ちでいた。

健診に通っていた病院は男性が入れないところだったため、あとからエコー写真や動画を見せてもらい結果を教えてもらった。

健診のたびに大きくなっていく我が子を見て、本当に自分もパパになるんだと喜びに心が震え、大変ながらもそれを心の支えに頑張ることができていた。

急転直下

妊娠19週のころ、妊娠中期のスクリーニングエコー検査があった。妻を病院まで送ったあと、私はジムへ向かって時間を潰していた。

ふと、携帯電話が鳴った。妻からの電話だった。

「すぐに病院へ来てほしい……」

泣きじゃくる妻から医師に電話が変わり「赤ちゃんは水頭症や脊髄髄膜瘤*3の可能性があります」と言われた。聞いたこともない病名にピンとこず「何だろう、そういう病気の疑いがある、くらいなのかな?」と思っていた。しかしそんな気持ちの裏側で、泣きじゃくる妻の声が妙に耳に残った。戸惑いと不安な気持ちを抱えたまま急いで病院へ向かい、2人で医師から説明を受けた。病名について確定診断ではないものの疑いが濃厚のようで大学病院への紹介を受けたのだった。

*3 二分脊椎のうち、神経の組織が皮膚に覆われていないもので、コブのようなものを形成する

大学病院を受診するまでの数日間はとにかく苦しい時間だった。
元々夫婦ともに、もし赤ちゃんに障がいがあったとしても、大切な我が子であることに変わりないのだから頑張って育てていこうと考えていた。

しかし赤ちゃんの病名をひたすら調べていくうちに、厳しい現実が待ち構えていることがわかり目の前が真っ暗になった。
もし生まれることができたとしても、すぐに成功率の低い手術が必要になるようだ。しかも、我が子は首に近い位置に脊髄髄膜瘤によるコブがあり重症度が高く、そもそも生きて産まれること自体が難しいと思われた。

どうしてうちの子が……?

色を失ったような絶望の中、2人で涙が枯れるほど泣いて過ごした。
夫婦で幾度となく話し合い、悩みに悩んだ末、もし診断が確定するのならこのタイミングで赤ちゃんを産むことにしようと苦渋の決断をした。

生まれてきた命

ついに大学病院の初診の日。

誤診であってほしい。どうか生きられる希望があれば——。
どんよりとした空気の中、そんなかすかな希望を持ちながらエコー検査を受けた。しかし、エコーに映る大きなコブを見て、医師から説明されるまでもなく「これはダメかもしれない」と非情な現実に打ちのめされた。

コブの位置からしても重症度がかなり高く、手術が成功してもコブより下は不随になること。水頭症のため脳が通常の4分の1しかなく、生きられたとしても意思の疎通はままならないこと。

医師から確定診断と説明を受け、「どうされますか?」と答えを促された。
私たちは、無言のまま顔を見合わせ頷く。そして、私の口から二人で決めていた意思を震える声で絞り出した。

「いま赤ちゃんを産むという選択をしたい」と——。

分娩のための入院までは数日あった。家族3人でゆっくりと過ごせる最期の時間だが、お別れを目前にした私たちは流れるだけ涙を流し、あまり会話をすることもなかった。

そんな中、もうすぐ会うであろう我が子の名前を考えた。自分たち夫婦を見守っててほしい、でも自分たちに縛り付けたりはしたくない。どこにでも自由に好きなところにいけるように……。そんな想いから「舞命(まもり)」と名付けた。

編み物が得意な妻は、舞命のために帽子を編んでいた。少し前に私のために編んでくれた帽子と同じ毛糸を使ってお揃いの帽子を編んでくれた。1月という寒い季節に生まれてくる我が子にぴったりの贈り物だ。

入院のため妻を病院へ送った日は、しとしとと雪が降っていた。空も私たち家族のために泣いてくれているんだと思った。

これから出産をする妻を送り届けたあと、自宅で1人きりで過ごすのは気がおかしくなりそうだったので、友人に連絡をとって事情を話し、一緒に過ごしてもらった。友人は何も言わず、ただただ私の話をずっと聞いてそばにいてくれた。長い長い時間だった。

そうして2日後、舞命は私たちのもとに生まれてきてくれた。生まれてくることがそのままお別れすることを意味するのだから、どんなに悲しいだろうと思っていた。やはり生まれた瞬間は悲しみが心を支配して涙が溢れてきてしまった。しかし、抱っこをしたり写真を撮ったり帽子をかぶせてあげたりと、家族3人で過ごした時間は、舞命が生きていないことを忘れてしまうくらい幸せな時間だった。

私と妻が舞命の顔を覗き込んでいたら、ふと舞命の口が動いたように見えた。きっとなにか話しかけてくれたんだ!都合の良い解釈かもしれない。でもそれでいい、これはきっと舞命からパパとママへの何かのメッセージだろうと思った。

その後、妻と舞命を残し、病院をあとにした。外の空気はこんなに冷たかっただろうか。先程まで三人で過ごしていて、せき止められていたさまざまな感情が、一人になった瞬間に濁流のように押し寄せてきた。

悲しい。苦しい。寂しい。悔しい……。

病院の玄関でも、帰る途中の駅のトイレでも人目を気にすることなく泣いた。ようやく自宅に到着するころには、自分でも制御できないくらい大きな感情になっていた。一人きりで大声をあげて叫び泣いた。

辛いのはパパも同じ

舞命の火葬が終わり、職場へ復帰することになり、周りの人へ状況を説明する機会があった。同僚や上司は私より上の世代の人が多いのだが、舞命の話をすると「君はまだ若いから次があるよ」とことごとく言われた。

次って?
臨月に満たない週数の浅い流産だから、舞命のことは1つの命として見てもらえないのだろうか?悲しませてもらえないのだろうか?

私と同様に、赤ちゃんを失った経験のあるパパ社員にさえ、同じように言われたのだ。

辛く悲しい気持ちを聞いてもらいたいと思って話してみても、誰にも理解されないどころか、話すことで辛い思いをすることのほうが多かった。こんな思いをするくらいなら……と、私は自分から舞命の話をするのはもうやめようと思った。

世の赤ちゃんを亡くしたパパは一体どうしているのだろう。そう思ってインターネットを探してみても、いわゆる『天使ママ』のSNSやブログにはたどり着けても、『天使パパ』の話を見かけることはほとんどなかった。

パパだってママと同じように我が子を亡くして辛い人もいるはずなのに、パパに寄り添ってくれるものが何もないことがショックだった。

俊介さんはこう話してくれた。
「赤ちゃんを亡くしたパパが辛いことを理解してくれたり寄り添ってくれる人が少ないことを痛感しました。話すことで、より悲しくなるだけなら、もう話さなくていいやと。でもそれは舞命の存在を否定してしまっているようで辛いことでした。今回のインタビューを記事にしていただくことで、苦しんでいるパパに少しでも寄り添うことができればと思います」

赤ちゃんを授かって体が変わっていくママとは違い、パパの体は何ひとつ変わらない。それでもママの変化を自分ごとのように受け止めて、エコー写真や大きくなるママのおなかを見て我が子の成長を感じることはできる。
そんな中で、お別れを選択しなければならなかった俊介さんの気持ちは想像に難くないだろう。

流産や死産であってもママと同じように悲しみを抱えるパパがいることをどうか知ってほしい。俊介さんは悲しみに寄り添ってもらえないという苦しい経験をして、気持ちに蓋をしてしまったが、近しい友人の中にはそっと寄り添いの言葉をかけてくれる人もいたそうだ。

そんなあたたかい寄り添いの気持ちが社会全体に広まって、赤ちゃんとお別れしたママはもちろんのこと、パパも取り残されることのないような社会になることを願ってやまない。

著者(写真=俊介さん提供/取材・文=SORATOMOライター 村木まゆ)

<参考文献>
脊髄髄膜瘤|日本胎児治療グループ|2024.10.3取得
先天性水頭症|小児慢性特定疾病情報センター|2024.10.3取得


この記事は、2024年8月に取材した際の情報で、現在と異なる場合があります。
当事者の経験談を元に構成しており、同じお別れを経験した方に当てはまるものではありません。
不安な症状がある場合は、医療機関の受診をおすすめします。
※記事内の画像や文章の転用を禁じます

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